ばみはり

 大学祭まであと7日となりました。
 昨日は会場となる本学の水上能楽堂で太鼓の配置の確認が行われました。
普段体育館の練習で行っている配置を能楽堂で再現し、それを桟敷からの見え方で調整し決定した場所にテープを張るというものです。私たちの中ではそのテープを張る作業を“ばみはり”と呼んでいます。わたしたち指導者は桟敷からそれを見てアドバイスをしていました。

 ある曲で舞台上にいつもの配置を再現しようとする際に、いつもの練習と違う向きに太鼓を置いてしまうということがありました。そしてその曲の奏者は桟敷の私たちに「どうですか」とアドバイスを求めてきました。わたしたちは、奏者はどうなのか、いつもの感じと比べて違いがあるかということを問い返しました。すると、あまりその違いはわからないという様子で、もう一度わたしたちに桟敷から見て変なのかどうなのかを質問しました。

 わたしたちは奏者がその違いに気づいていなかったことにはっとしました。この日は配置のみで、音を出すことが出来なかったのでその違いに気づきにくかったといえるかもかも知れません。しかし、奏者が普段演奏している仲間との距離の感覚に注意を向けていなかったのではないかということも考えさせられました。
 私たちが演奏する中で演奏者同士の距離は、自分が十分に動けるスペースであるかということだけではなく、あわせる音が聞こえるかということ、さらにあわせるときは視覚も働いていますから、いつも見える視界と同じところに仲間がいるかということなど大変重大な問題なのです。しかし、普段の練習では常にテープを張っていたのでいつも同じ場所や向きで演奏をすることが出来、いつもと違うという距離の感覚など問題にもあがってこなかったということに気づきました。つまり、テープに頼って奏者自身の感覚は置き去りにされていたままだったのではないかと考えられたのです。
 さらに、“配置”という言葉を物質的な位置関係のこととばかりとらえてしまうと、わたしたちのように桟敷にいる人からどう見えるかということが焦点にあてられ、本番で演奏してみたら普段の練習の距離の感覚と全く違うということになってしまう危険性があります。
 そのため、わたしたちは「(桟敷から見て)どうですか」といってきた学生に、いつもの感じと比べて違いがあるかということを問い返したのです。配置を考える際には桟敷から見てどうか、また奏者からみた奏者同士の距離の感覚など、どちらも見ていく必要があることをあらためて気づかされました。