あのときのようにできない④

3.できないことに気づけるか

 「できないことを“できない”と気づく」というのは、そう容易いことではありません。前述したとおり、動きつつある中で感覚を置き去りにしてしまえば、単なるトレーニング的な反復運動になってしまいます。そして、そのように習慣づけられた自我に感覚素材がいくら触発しても、自我に気づかれないまま過去地平に沈んでいってしまうのです。しかし同時に、意識を向けることで、つまり自分次第で、新しく拓けてくる世界がある、と考えられるのではないでしょうか。そう考えるとき、できないことに気づけるのは“能力”と言えるのかもしれません。運動学では、〈原志向位相〉から形態発生が出発すると考えますが、この〈原志向位相〉に立てるかどうか、というのはとても重要な問題なのではないでしょうか。

 その重要性を示す事例はたくさんあります。たとえば、「自分はこうやりたい、これでいい」というところに固執しすぎて、周りと合っていないことや、音の質の良しあしにまるで気づかない人もいます。辛うじて「なんか合っていないな」程度に気づいても、「他の人が合わせてくれない、みんな自分に合わせてくれ」と考えてしまうとき、そこで修正・創造可能性が断たれてしまうという危険が潜んでいます。また、他者を感じようとする意識がないと、他者への気づきはもちろん、思いが一つになるような自他未分の体験もできないばかりか、「他者と断裂した独りよがりな演奏」になってしまいかねません。どんなに複雑なリズムを打つことができるコツ身体知を持っていたとしても、情況を読んだり、カンを働かせたりできなければ、金子の言う「宝の持ち腐れ」になってしまうのです。その上、そんな演奏を聴かされたお客さんに「見たくない、聞きたくない」と感じさせてしまっては本末転倒です。

しかし反対に、太鼓を打たずとも、先輩の練習を見ているだけにもかかわらず、意識の向け方次第で自分の演奏をよりよくするような練習ができる、ともいえるのです。「練習していないのに上手になっている気がするのは何故でしょうか…」と首をかしげる1年生の姿が、それを物語っているように思えます。“気づく準備ができている”身体をもって、外部視点では見えない「かたちなきかたち」を見てとろうとする練習がいかに重要か、教えてくれていると言えるでしょう。