あのときのようにできない①(「太悳」vol.4より)

【はじめに】

 よりよい演奏をめざして練習していくとき、「以前よりできなくなっている気がする」とか「あのとき思い通りに(あるいは何も考えずに普通に)できたことがなぜか今はできなくなってしまった」と感じることはありませんか。それは、地打ちにのっていくことであったり、笛を息漏れしないで吹くことだったり、様々な場面で起こるようです。

 なぜそんなことが起こるのでしょう。練習をさぼったからでしょうか。体調がすぐれないからでしょうか。それとも、楽器のコンディションが悪いのでしょうか。いろんな原因が思い当たるかもしれません。では、練習を怠ったわけでもなく、怪我をして身体が言うことをきかないという状態でもないのに、「あのときのようにできない」と感じてしまうとすれば、なぜそのように感じてしまうのでしょうか。本当に、練習をしても以前より下手になってしまうなんていうことが起こるのでしょうか。このことを、現象学的、運動学的に探ってみたいと思います。


1.“今”を感じながら動く

 人間の運動は常に即興的です。「歩く」こと一つとっても“そっちへ行こう”という私の関心によって触発されるパトス的決断が、生き生きした現在において常に働いており、「Aを入力するとBが作動する」というように機械論的に導き出すことのできない、〈前もって見通せない〉必然性を胚胎しています。生きものの運動について、「動ける、動かざるをえない、動きたい、動いてよい、動くべきだといったパトス的な決断と承認を迫られる(金子明友『わざの伝承』321頁)」志向的な体験であると金子は述べています。

 太鼓の演奏も、「メトロノームに合わせて」とか「キレのあるリズム」と意識を向けて自ら動きつつある中で、いろんなことを感じ、感じながら動くという、ヴァイツゼッカーの意味での「自己運動」といえましょう。それは、感覚刺激を受容してからその反応として動くのではなく、同時発生的に生み出されていくのであり、そこには、無色透明な反復運動にはなりえない、そのつどの〈意味〉があります。楽譜上では同じリズムを繰り返しているとしても、奏者の身体において流れる“動く感じ”としてのメロディー(音楽的な、楽譜としてのメロディーや音階という意味とは異なる)は、一回として同じものはありません。奏者は、自らの情況と関わり合いながら、「パトス的なるもの」に迷いながらも、即興的に決断していかなければならないのです。そのような「自己運動」、すなわち感覚を置き去りにせず自ら動くことは、音や動きのよしあしを追求していく上でとても重要になってきます。

 たとえば、周りとずれていることに気づかない初心者が、「合わせる」ことに意識を向ける練習を繰り返すことで、「この音がずれているんだ」とか「合っているってこんな感じなのか」ということに気づく、つまり「きく耳を持つ」ようになるということがあります。外から入る音の刺激が鼓膜を振動させ、脳に伝わる、といった物理的因果関係だけでは説明のつかない、“今まで聞こえなかった音が聞こえる”という現象を、実際に体験したことがある人も多いのではないでしょうか。これを聴力の問題だとする考え方もあるかもしれません。しかし、実際に聴力が突然良くなったかどうかは、科学的に検査しなければわかりませんが、当の初心者の実感としては「よくわからないけど、ずれていると指摘されたから必死に聞こうとしたら、なんとなく意味がわかってきた」などというのが本音なのではないでしょうか。この本人の感じ方を問題とした場合、現象学的には「動機づけられた関心」によって音が触発されるのだ、ということができます。自分の音が周りと合っているかどうかわからない、というレベルだった学習者が、“今は聞こえないけどなんとか聞きとろう、感じよう”とする努力志向性の習慣化によって、新たな身体知が発生したのです。これは、日常的には“耳が鍛えられた”ともいわれるかもしれません。ただし、単にトレーニング的に練習をこなしていては耳が鍛えられるはずがないことは、もう言うまでもないかと思います。感覚を置き去りにせず、自ら動くということを大切にしているのは、このような考え方からです。よく太悳でいわれる、「練習に参加するだけでは練習したことにはならない」という言葉も、現象学的、運動学的が日々の稽古と直結していることをあらわしているといえるでしょう。