今しかできないこと

 余震が続いているため、まだ体育館は立ち入り禁止になっています。つまり、太鼓を使って練習ができません。しかし、太鼓がなくてもできる練習はたくさんあります。

 今は、筋トレやストレッチだけでなく、「歩く」、「跳ぶ」など、全身を使った基本的な運動をよりよくしていくことに時間をかけています。毎日、和太鼓部がバレリーナのように脚を高く振り上げながら一列で歩いている様子は、他の学生の目には「何の練習をしているんだ…?」と不思議に映っているかもしれません。でも、これは決して太鼓と関係ないトレーニングではないのです。和太鼓において、音を生み出すための“動き(振り)”は、演奏から切り離すことのできない問題です。だから、演奏に必要な動きの質を、より高めていくために、“動ける身体をつくる”ことはとても重要になってくるのです。

 普段は特別意識していない運動を改めて練習してみると、今まで気づかなかった自分の“クセ”に気づいたり、簡単だと思っていたことが意外にも格好悪い動きになっていたり、ということが起こります。最初は、「ジャンプってこんなに大変な運動だったのか…」と、あまりにも動けない自分の身体に、愕然とすることも少なくありません。しかし、これを続けて練習していると明らかに変化が出てきます。動いている本人の感覚としても、外から見ていても、練習し始めとは別人のように変わる部員もいました。短時間の間でいきなり筋力がついた、なんていうことはありえませんから、感覚の問題がいかに大きいかというのは言うまでもないかと思います。

 このように、様々な運動感覚を養う練習は、自分が動けるようになるばかりではなく、他者の動きが“見える”ようになっていきます。私たちは、目の前にあるもので物理的に見えるものは、視覚によって何でも見えている、と考えてしまいがちです。しかし、単に“目に映っている”ことと、その感性的な意味まで“見える”ことは、本質的にまったく異なると言えるでしょう。

 たとえば学生組で、卒業していった先輩たちの、過去の演奏をビデオで見ながら練習する、といったことは、自らつかもうとしていく意味でとても大事なことだと思います。そこで勉強になることも多いでしょう。しかし、動きの感覚素材が乏しいまま、つまり“動けない身体”で見えるものは限られている、ということを忘れてしまうと、大変です。極端にいえば、初心者がプロの真似をしてできたようなつもりになって満足しているとき、その真似は“皮相的な真似”と言わねばならないでしょう。小手先でまねた動きでは、音の表現と乖離してしまう危険性があるばかりか、気づいた時には目指していたものと全然違う、滑稽な動きになってしまっていた、ということになりかねません。目で見えて、頭で理解できても、実際に練習を重ねていく中でしかわからないことがあるのです。

 今のような練習では、太鼓に触っていない不安が学生たちにもあるかと思います。しかし逆にいえば、太鼓が使えない今だからこそできる練習もあると思うのです。川口先生は、誰かが怪我をしたりして練習ができなくなったとき、ご自身の選手時代の経験から、決まって話してくださることがあります。

 「スポーツ選手は、脚を怪我したら腕を鍛える。治るまでただ待っているのではなく、逆に自分の弱いところを強化しようとする。スポーツをしていたら必ず怪我はするんだから、そのとき何をするかの判断で、その選手の能力が決まる。」

 今、私たちは全体でそのような一種の“怪我状態”なのだと思います。先日の日記で「今できることを考えながら少しずつやっていきたい」と書きましたが、「今しかできないことをどんどんやっていかないともったいない!」 と私自身が思い直しました。

 怪我が治って元気になったとき、今が生きてくるように過ごしていきたいですね。

 

Gozu Yoshino

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